雲仙はかつて「温泉山」と書いて「うんぜんさん」と読み、
山の神が住むといわれる信仰対象の山でした。
教会
カトリック雲仙教会司祭 古巣馨神父様
1612年~58年の間に、島原半島では数万人にもおよぶキリスト信者たちが殉教しました。神と人のために、命までも惜しみなく捧げ尽くした人を殉教者と呼びます。混迷する社会と貧しい生活の中でも、人として善良さと気前のよさをうしなうことなく、まっすぐに生きた人たちです。その生きざまは人々の記憶から消えることはありません。
時代の大きな節目を向かえ、世界はきしみ、大人も子供もうめき声を上げています。根底から揺らいでいます。 「私たちの世紀において、殉教者たちが再来しました。その多くは名前さえわからず、あたかも神の栄光のためにいのちをささげた“無名戦士”であるかのようです今こそ私たちはかれらの証を大切にしなければなりません」
(教皇ヨハネ・パウロ2世『世紀2000年の到来』)
雲仙・島原を訪れた皆さんが、確かなものと出会い、本当の幸せの道を歩みはじめられることを念じております。
(2004年2月28日 パウロ内堀と15殉教者記念日に)
雲仙殉教者とステンドグラス
【聖母の組】
宗教改革で揺れるヨーロッパで、信徒のリーダー養成として始められた「聖母信徒会」は日本では「サンタ・マリア(聖母)の組」と呼ばれ、信徒教育を通して小共同体づくりの形をとった。『ドチリナキリシタン(キリスト信者の教え)』は日本の教会の最初の要理書で、これが司祭不在の教会で信仰伝達の核となっていた。また、『こんちりさん(完全な痛悔ための祈り)』も暗唱され、殉教や踏み絵に際していつも唱えられていた。
こうした信仰教育と祈りのための集まりは、初期教会でなく、潜伏時代も密かにつ続けられたため、信仰は確固として受け継がれていったと考えらる。 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ18、20)信者たちは共に学び祈るために集まる、その営みを照らす3本のローソクは、三位一体の神の働きの中で行われたことを示す。闇の時代に、神は虐げられた人々の中に光を置かれた。神と出会った彼らの顔は、輝いている。
【慈悲の組】
フランシスコ・ザビエルによって伝えられたキリストの福音は、医師であり宣教師となったアルメイダを通して癒しを伴った「神のいつくしみ」として、日本の貧しい人々に伝えられた。アルメイダは行く先々で福音の勧めを具体的に実践するためのグループを養成、組織し後の「ミゼリコルディア(慈悲の組)」の基礎を築いた。医療・福祉活動、貧困者の生活支援など、その活動内容はマタイ25章の「正しい人たち」をまねることであった。『ドチリナキリシタン』の中には、この慈悲の組の『14のすすめ』が暗唱事項として記されている。
ステンドグラスには、この中の「ものや体についての7つのすすめ」(飢えている人、乾いている人、着るものがない人、病気の人、旅をしている人、囚われている人、亡くなった人)を図案化した。「あなたの父が憐れみ深いようにあなた方も憐れみ深い者になりなさい」(ルカ6,36)こうしてキリストの福音は正義によってではなく、慈しみの行いによって、理屈抜きに直接日本の貧しい人々に伝わっていったのである。
【聖体の組】
誰が、どのような仕組みで始めたのかは明確ではないが1610年頃の年次報告書に「聖体の組」と呼ばれる信者たちの活動が登場してくる。特に迫害に入ると、聖体礼拝や聖体拝領を準備させることで仲間の信者たちの励まし、支えつづけた。島原半島では、殉教者たちの最後の祈りとして「聖体のイエスは賛美されたまえ」を唱えと報告されている。さらに島原の乱では「ご聖体の組の旗」(島原の乱の陣中旗)やメダイを口に含んで斬首されたと見られる頭蓋骨の発掘など、聖体にかかわる信者たちの信仰のしるしを認めることができる。聖体と殉教の深い結びつきを説いたのは、自らもローマで殉教したアンチオキアの司教イグナチオだが、日本の信者たちも同じ霊性を生きていたと推察される。なぜ、キリシタンたちがあのように生きて死んだのか、その理由は聖体にたどり着く。
「ミサ(聖体)はキリスト信者の源泉であり、頂点です」(『教会憲章』)ステンドグラスは、「聖体の組の旗」を模して、オスチアとカリスの前で礼拝を捧げる天使と共に、信者たちもその礼拝に加わるさまを描いた。それは、神が使いに運ばせた天からのパンで養われる人々の姿を示すものであり、同時に、キリストのいのちに養われて、キリストに似た者となるように招かれた人間たちの決意をも示している。
【剣を鋤に、槍を鎌に】
上記に示した教会の3つの働きは、イエスがメシア(キリスト:油を注がれた者)であることからくる3つの使命(預言職、王職、司祭職)に起因している。いつの時代もこれらの働きは教会の基本であり、教え・世話し・祈る3つの姿をバランスよくいきたとき教会はキリストの背丈まで成長していく。殉教時代、日本の教会はその成長した姿をしるしとして残している。島原の乱の激戦地原城跡から今日発掘される多くのロザリオの珠やメダイや十字架は、立てこもっていたキリシタンたちによって打ち込まれた大砲や鉄砲の弾から作り変えられたと考えられる。戦いの道具を祈りの道具に、殺戮の道具を平和の道具に作り変えたのです。
「彼らの剣は打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」(イザヤ2,4)神からの預言は真実なのです。しかし、大砲の玉をロザリオの珠に打ちなおす前に、キリシタンたちをアダムから神の子らに作り変えてくださるお方がいた。ロザリオは作り変えてくださるお方への「取次ぎの祈り」です。「この人が何か言いつけたらその通りにしてください」(ヨハネ2,5)味気ない水を風味あるぶどう酒に変えたお方に取り次ぐのは、聖母の役割です。キリストは、作りかえられるという「過ぎ越し」に、マリアを介在させたのです。鉛のロザリオの珠は、殉教時代の教会が残した「過ぎ越し」のしるしです。
【日本の教会】
日本の教会ほど信徒によって導かれ育まれた教会は世界に類をみない。特に250年間の司祭不在にもかかわらず教会が絶えなかったことは、人間の働きを超えた出来事には違いないが、信徒だけでも教会が存続しえる証拠ともなった。しかし、そのために特別に選ばれた信徒たちの存在は無視できない。「都へ行きなさい。水がめを運んでいる男に出会うその人について行きなさい・・・・・」(マルコ14,13)「たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバー「慰めの子」-と呼ばれていたキプロス島生まれのヨセフも、もっていた畑を売り、その代金を持ってきて信徒たちの足もとに置いた。」(信徒4、36-37)信徒たちの時代から神はそのみわざを行うために、信徒たちを従え守るために、前もって「慰めの子」を選び、待ち構えさせていたのです。
宣教師たちをかくまい、信徒たちを束ね、体を張って教会を擁護する彼らは、神にとっては「愛する子」に違いにない。昔も今もこのような「バルナバたち」によって日本の教会は支えられてきた。彼らの生涯はキリストのパン(聖体)に与かる一粒の麦であり、その血に与かる一粒のぶどうのようでもある。ステンドグラスは、日本の教会のバルナバたちを代表して、今、列福申請中の雲仙6人の殉教者の顔と祈る掌を描いた。
【たたずむ聖母と日本の教会】
「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19,27)十字架上のキリストはマリアを教会の母、苦しむものの母として私たちに差し出された。それ以来、聖母マリアは苦しむ者の傍らに黙ってたたずんで(Stabat Mater:たたずむ聖母、悲しみの聖母)いる。沈黙の250年間の日本の教会には一人の司祭もいなかったが、あの十字架の傍らにたつ聖母はこの苦しみの教会に黙ってたたずんでおられた。それは、教会だけでなく、毎年、毎年踏み絵を行い、その度に「こんりちさん」を唱えて罪を侮い、信仰を新たにしようとする貧しい信徒たちの傍らに、黙ってたたずんでおれれた。1854年「無原罪のおん宿り」の信仰箇条が宣言され、それを確認するかのように1858年ルルドに聖母が出現、このマリアへの信仰に育まれたパリミッション会の宣教師たちによって、神は日本の沈黙の教会の扉を開かせた。その時のシンボル(信条:もともと「割符」「合言葉」の意味)は『サンタ・マリアはどこですか』だった。日本の教会の復活に立ち会ったプチジャン神父と杉本ゆりを代表とする潜伏キリシタンは、互いに教会の母であるマリアを通してその信仰を確認したのです。マリアはザビエルの時からずっと日本の教会と共に歩んできたのです。
さらに、1945年8月9日アメリカによって長崎に落とされた原子爆弾は、浦上天主堂の上で炸裂しました。その時十字架の傍らに立つマリア像の祈る手は吹き飛ばされてしまいました。しかし、マリアはその時も苦しむ者たちの傍らに黙ってたっていたのです。「7代たてば、ローマからパーパさま遣いが来られる」かつて潜伏キリシタンの間で伝えられた約束はプチジャン神父を通して実現した。そして、1981年2月26日そのパーパ様(教皇ヨハネ・パウロ2世)はこの地を訪れ、信徒発見の聖母の前で日本の教会のために祈られた。
毎月第1、第3,第5日曜日 午前11時よりミサが行われています。
お気軽に御参加ください。
毎日、午前9時~午後5時まではステンドグラスをご覧頂けます。(要予約)